22日が彼女の命日だったらしい。ちょうど亡くなられた頃、私は物心つくか、つかないか、という年齢だったのだが、ニュースに「向田邦子」という名前と「飛行機事故」というテロップが出ていたのが、ぼんやりと記憶に残っている。
それから10数年経って、高校生の時に、なんとなく彼女のエッセイ「父の詫び状」を手に取って読み始めたのだが、内容を理解し、咀嚼するには、当時の私では幼すぎたのか、何だか「しっくりこない、腑に落ちない」という感想を持っていたように思う。その頃はアメリカ文学の翻訳物にハマっていて、サリンジャー、マーガレットミッチェル、エミリーブロンテなどを読みふけっていた私には、普段読んでいた物とあまりにかけ離れた戦前昭和の世界だった為に、尚のこと理解が難しかったのかもしれない。
本当の意味で彼女の作品を理解出来たのは、ニューヨークで暮らし始めて2年ほど経った後だった。ニューヨークの常識のスタンダードが理解出来るようになって、日本とは全く異なる多様な人が集まるコミュニティで、違和感を感じることなく暮らせるようになって来た頃、といえば、どのくらいのアメリカ被れ具合だったか、お分かりいただけるだろうか?(笑)自分の価値観、物の見方や感じ方は、何によってどう形成されたのだろうか、と日本人論に興味を持ち始めていただけに、山の手の戦前昭和の家庭にまつわる数々のエピソードは、その質問に対する答えを垣間見せてくれたように思う。
彼女の作品を読むとたまらない懐かしさがこみ上げてくるのを、私は自分でも不思議に思っていたのだが、海外で長く暮らし、大好きな祖母に会えない状態だったから、祖母の育って来た時代の面影を感じさせるものに愛着を覚えていたことも、向田文学に傾倒していった理由の一つかもしれない。良妻賢母になる為の教育を受けていた戦前の女学生のモラルや目線を感じさせる、決して直接的すぎることのない、あたりの優しい文章を通じて、私は祖母や、彼女が生きた時代の空気と対面していたのだろうか。
向田作品の中には、戦前の女学生の面影が色濃く宿っていて、ページをめくると今も懐かしい温もりで満ちている。